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【おおつぼりゅう】

第6章 武術の巻>戦国時代

■2 日本の馬術を体系化した大坪流…馬の気持ちを理解して人馬合体の境地に
 「天は人なり、地は馬なり」
 これは、斎藤好玄が書き記した『大坪流好玄記』にある言葉である。続けて同書は、「天、地の気を知り、地は天の気を知りて事をなす故に合体して一枚なり」という。
 つまり、乗手(天)と馬(地)がお互いに気脈を通じ合って一つになること――人馬合体が、大坪流馬術の極意だとする。
 この大坪流馬術を体系化し、天下に広めたのは、斎藤好玄の功績である。好玄は、日本馬術史に大きな影響を与えた『大坪流好玄記』を完成させると同時に、乞われるままに人々に馬術を教授し、数多くの人材を育成した。やがて弟子らは、大坪流をもとに独自の技法を凝らし、新たなる流派を開いていった。それゆえ大坪流は、我が国の最大の馬術流派となった。
 大坪流の開祖は大坪慶秀である。上総国市原(千葉県市原市)に生まれ、若い頃より小笠原政長に馬術を学び、自らの工夫を加えて一派を開いたと伝えられる。
 慶秀は、室町幕府の3代将軍・足利義満の馬術指南役に採用され、従五位下、式部大輔に任ぜられた。義満の死後は4代将軍・義持に仕え、晩年は剃髪して道禅と称し、1457年に没した。大坪流は実子の永幸、続いてその高弟の斎藤国忠に受け継がれていった。
 そして4代目に就任するのが、『大坪流好玄記』の著者・斎藤好玄である。好玄は、3代目・国忠の孫に当たる。1500年に京都で生まれ、馬術師範として13代将軍・足利義輝に仕えた。1526年に安芸守に任じられ、領地として河内の誉田(大阪府羽曳野市)を授かったとある。1564年には、義輝に大坪流の伝書30巻を献じ、1572年に能州(石川県)で没したとされる。
 しかし、異説もある。江戸時代に書かれた、南北朝時代から江戸期に活躍した武芸者の列伝である『本朝武芸小伝』には、斎藤好玄は能州熊本城(熊木城=石川県鹿島郡中島町)の城主だったとあり、隣国との勢力争いに敗れ、城を捨てて諸国放浪の旅に出、晩年に至りようやく落ち着いた先が、信長の重臣・荒木村重の一族・荒木志摩守元清の屋敷だったというものだ。
 大坪流の秘伝を紹介すると、まず、人馬合体の境地に達するには「上の乗人(騎手)、下の馬の心気をよく知」ることが大切だとする。馬の気持ちを理解しようとしなければ、「馬と一躰せず、馬乗れぬ」ものだという。おもしろいのは、「(馬は)上(騎手)の心を能く能く知るものなり」と記されていることだ。つまり、馬のほうが人間より敏感で賢いと同流は説く。
 もちろん、馬の心気がわかったからとて、すぐに人馬が一体になれるわけではない。「地の馬は天の乗人の教へに随」い、「乗人の気を請けて、其気を生ずるもの」だから、常に精神を清らかに保つ必要がある。もし、「乗人の心清らか成れば、其心、馬また心清然としてよくゆく」と、好玄は言う。
 手綱さばき一つとってもそうである。「父母は、左右表裏の手綱なり」と手綱を両親に比し、「いましめて乗る所は父なり、あはれみて乗るは母なり」と、ときに応じて父のように厳しく、あるいは母のように優しく手綱をとれと教える。
 つまり大坪流では、技術論や調教法をうんぬんする前に、馬に接する乗り手の気持ちを重視しているのである。人馬合体を可能ならしめるものは、技ではなく心にあるというわけだ。
 小手先の技術より、まず精神論から入っていくのが、日本の乗馬法の特徴だったのである。
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(C)日本実業出版「日本史の雑学事典」('02/6)
JLogosID:14625071
最終更新日:2002-06-01




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