ケータイ辞書JLogosロゴ 本願寺
【ほんがんじ】

7 江戸時代-町人文化の花盛り>1602年

■西と東に分かれた本願寺
〜時の権力者の意向によって分裂させられる。江戸時代は東が優遇される〜
 京都駅から、京都タワーの脇を通り烏丸通を北へ向かうと、すぐ左手に東本願寺の大伽藍が見えてくる。正式には真宗大谷派本山であるが、そこから西へ、堀川通に面して大きな寺地を抱えるのが西本願寺、正式には本派本願寺本山である。京都では、それぞれ「お東さん」「お西さん」という呼称で親しまれている。
 室町時代から江戸時代に入るまでの、いまでい浄土真宗(一向宗)という宗門の歴史は、華々しい闘争の歴史であったともいえる。特に宗門が組織の拡大を遂げる第八世蓮如以降には、教線拡大と比例するように周囲の諸勢力との軋轢を生み、蓮如自身、本拠地を転々とした。平成一五年に国の史跡となった山科本願寺跡は、蓮如が造営した坊舎群と寺内である山科本願寺の遺構であり、同所は「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」(『二水記』)といわれるように、東西約八〇〇メートル、南北約一キロを土塁と濠で囲った広大な宗教都市であった。蓮如の隠棲の地となった山科南殿の庭園部分と土塁の遺構は、現在、山科の音羽伊勢宿町にある光照寺(浄土真宗)によく残されている。
 広大な寺内町であった山科本願寺であるが、天文法華の乱により焼け落ちる。その後、宗門の中心は石山本願寺(大坂)に移され、一向宗はさらに勢力を強めるが、信長との一一年にわたる戦いに実質上敗れ、時の門主であった第一一世顕如は、天正八年(一五八〇)に大坂を明け渡し和歌山へ退転する。これによって全国の一向一揆は幕を閉じたわけだが、信長の死後、顕如は秀吉によって呼び戻され、天正一九年(一五九一)京都の六条堀川に、東西三〇〇間、南北二八〇間の寺地を与えられ、本願寺を再興した。これが現在の西本願寺の基となるわけだが、顕如は翌年に没し、長男の教如が門主を後継する。しかし、秀吉の不興を買った彼はすぐさま隠居し、弟の准如にその地位を譲ることになる。このあたりの事情は、時の権力者の意思や本願寺内の人間関係などが影を落としているのだろうが、信長による石山攻めに最後まで抵抗した教如に対する一門の畏敬の念は強く、教如は隠居後も隠然たる力を持ったらしい。
 激動を生き抜いてきた教如の政治感覚は、秀吉の死後、家康に近づかしめ、関ヶ原の合戦前には自ら江戸に赴いて家康に面会するかくして関ヶ原の合戦の翌々年、慶長七年(一六〇二)に、家康は烏丸七条に東西四町、南北四町の土地を教如に与え、伏見城の遺構を寄進して阿弥陀堂を建設した。これが現在の東本願寺の基となるわけで、一般には東西本願寺の分派ともいわれる。さらに後の三代将軍家光の時代に、東本願寺は現在の渉成園(枳殻邸)につながる寺地を与えられ、西本願寺をしのぐ寺地を有するようになる。
 さて、この両本願寺の前には寺内町が広がっている。西本願寺寺内町は寺の東側、堀川通と東本願寺境内との間、東本願寺寺内町も同様に寺の東側、烏丸通と渉成園の間がその中心となる。寺内町には、それぞれの本山出入りの仏具・仏壇商、あるいは法衣商をはじめ、数珠、お香、油、菓子などの食品、そして宿屋など、本山への奉仕と報恩講などで全国から集まる門徒相手に商う商家や職人さんたちが集住してきた。
 寺内町というと、一般的には戦国期より信長政権期までに誕生した寺院を中核とした都市で、戦乱期の事情を反映して囲みや濠といった防御施設を有し、寺院の庇護のもとに自治的な機能を持った宗教都市と理解される。しかしながら、この東西両本願寺寺内町は、西は秀吉、東は家康といった世俗権力者の肝煎によってできたという点や、京都の町続きであり周囲から独立した景観ではなかった点など、戦国期の寺内町とは異なる点が多い。
◎女の髪の力で上げた東本願寺の用材
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)日本実業出版「京都の歴史がわかる事典」('07/5)
JLogosID:14630090
最終更新日:2007-05-01




ケータイ辞書 JLogosトップ