ケータイ辞書JLogosロゴ 歌舞伎の変遷
【かぶきのへんせん】

暮らしと文化

一五〇〇年代の末期、それまで祭りの場で集団で踊っていた「小歌踊り」といわれる踊りが舞台芸能に構成され、数人の少女が踊るものとなった。これを「ややこ踊り」という。一六〇〇年代の初め、そのややこ踊りを踊っていた女性の中から、時代に合った踊りを作りだしたのが出雲(いずも)の阿国(おくに)で、これを「かぶき踊り」と称した。「かぶき」とは「傾(かぶ)く」(=逸脱した行為をする)の名詞化である。『当代記』には異風の男装をした阿国が「茶屋の女とたはむるゝ体」を演じたとあり、戦乱の世が終わりに向かおうとする当時の世相を敏感に映したものであった。
阿国の踊りは京都を中心に広まり、多くの女性の芸能者たちがこれをまねるようになった。とりわけ遊女たちが盛んに行うようになり、後に幕府により禁止された。その後に続いたのが少年たちによるかぶきであった。これを「若衆(わかしゅ)かぶき」という。若衆かぶきでは美しく装った少年たちの踊りに加え、軽業芸も行われた。しかしこれも承応元(一六五二)年には幕府より厳しく禁止される。
かぶき関係者は幕府に継続を願い出て、一年後再興が許可された。しかし再興の条件として求められたのは、若衆を出演させないことだった。若衆とは一五歳以下のまだ元服をしていない少年で、月代(さかやき)をそっていない前髪姿がその魅力とされていた(→まへがみ)。しかし若衆を舞台にのせず、成人男性を中心とした新たなかぶき(=「野郎かぶき」)を作ることが必要となり、したがって容姿の美しさや踊りを見せることだけではなく、ストーリー性を重視したり、人物の心情表現を行ったりと演劇的な要素が豊かに展開するようになったのである。現在まで伝わる「歌舞伎」の出発点はここにある。その後かぶきは同時代のさまざまな芸能や文化を吸収しながら、時代に合った演劇として進展していくこととなった。→<暮らしと文化>「女形(おんながた)と役柄」・<暮らしと文化>「役者評判記」
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(C)東京書籍[全訳古語辞典('06/2)]
JLogosID:5113474
最終更新日:2007-12-11




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